雑 記 帳



身のまわりの、気にとまったこと、目にしたことを、書き留める。
日記となるのか、ひとり言となるのか・・・。

by 河野 正

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2002年12月□日
今日は仕事で東大和市の公園を通りかかった。
遠目に、気になる建物がある。
こういうものを見ると、どうしても近寄って
実体を明らかにしたくなる。
たとえ、ミゾレまじりの寒い人気のない公園の
夕刻どきであっても・・。
近づくと、壁面に無数の傷跡がある。
老朽化のコンクリートの爆裂か、あるいは弾痕か・・?
しかしそんな建物が今どき公園にあるはずないだろうし、
と思いつつ、案内板を読む。 まさに弾痕であった。
史跡文化財に指定されている「旧日立航空機の工場変電所跡」とある。
弾痕は、大戦中にグラマンやB29によって銃爆撃を受けた跡だという。
今でいう軍関係施設のピンポイント攻撃である。
そう言えば、昔 通っていた世田谷の小学校の先生が
「戦時中この学校は、隣にあった軍需工場の攻撃の巻き添えを受けて
燃えたことがあります。」と言っていた話を思い出してしまった。
まさにニュースでしか見かけない銃撃痕のナマの実物である。
果たして若い人は、この建物を見てどのような想いをもつのだろうか。
ぼくでさえ、この程度の文しか書けないが、生々しいものを見た、
とても寒い日だった。
末永く残して欲しい建物ではある。

   

2002年12月□日
JIA建築セミナーにて、隈研吾氏の講義を担当。
スライドではなく、パワーポイントとビデオを駆使しての講義。
氏のもぱっらの興味は「見えない建築」と「ルーバーとスリット」と、受けとめる。
それらのお話は、もちろん大いに楽しく興味深く伺う。
しかし、一番本音で語ってくれたお話は、もっと印象深かった。
それは、講義最後の受講生の質問への受け答えだった。
作品として発表できる建物と、そうでないものがあること。
今日、見せてくれた銀山温泉にしても、依頼の打ち合わせの帰途。
「工事費が1200万円で、設計料が・・で、・・。」
「これではな〜 」と、半ばあきらめつつも、
1ヶ月間考えて、何とか今の形にもっていったこと。
発表できる作品にならない場合は、知りあえた人とのつながりを
大事にしてきた、とのお話。
それが次の作品を生み出してきたこと、など。
そして若い事務所スタッフとの接し方で注意していることはと言えば、
どんなに夜遅くなってもできるだけ事務所に戻って、
所員が声をかけやすい時間を作ることだと言う。
隈さんの誠実で、建築への真摯な姿勢に 頭が下がる今日の日でした。
これを、隈さんの新たな一面の発見と言ったら怒られるだろうか。



2002年12月□日  
 超高層 林立の汐留

 ビルと空の 映りこみ が美しい




2002年12月□日
 渋谷は 雪から雨に変わった 道元坂



2002年12月□日
訃報が続いてしまう。
Mal Waldronが 12月2日に亡くなった。
あまりにも名作である「LEFT ALONE」
アルバムを引っぱり出してライナーノーツを読む。
「ビリー・ホリディに精魂こめて捧げられた永遠の挽歌」とある。
もし、このページをJAZZを愛する人が見てくれていたら、
今宵は是非この曲に針を落として欲しい。
「LEFT ALONE」   「CATWALK」
「YOU DON’T KNOW WHAT LOVE IS」
「MINER PULSATION」   「AIRGIN」
       ・・・・・・・
もちろん、ぼくも全身で聴いています。




2002年12月□日
ミステリーマガジンの「ヘンリイ・スレッサー追悼特集」を見つけて購入。
今年の四月に亡くなったそうだ。
「怪盗ルビィ・マーチンスン」が有名かもしれないが、
以前に読んだ「短篇集」のほうが印象に残っている。
その短篇集で、TVの「ヒッチコック劇場」や「トワイライトゾーン」の
構成作家だったことを知った。
読んだときには、昔見たテレビのシーンが想いうかんだりもして、
その都会的で洗練されたストーリーや
小気味の良い”オチ”に感心したものだ。
手にした「追悼特集」には 七作が訳載されていて、今 四作ほどを
読んだところだが、はっきり言って、期待通りではなかった。
あのピリッとした、時代の先端を思わせる良さがなくなっている。
晩年のものが多いためだろうか。
残念だが、冥福!




2002年12月□日
近所の銀杏並木が黄色になった。



2002年11月□日
右は友人からもらったNECのNX。
Win95を98SEにUpG.した。
「ドライブコンバーター」でFAT32にしようとしたが、ダメだった。
PentiumUの200だけど、IBMのサブ機にとって代わった。
真ん中は、今では珍しいHDDの外付け4.3GB。
これは、遥か5年ほど前に新品で買った。 高かった。
左は自作(?)の外付けMO。
IBMタワーPCから外した内臓MOを、オークションで購入の
ジャンクな抜け殻に無理やり組み込んだもの。
最初はジャンパーが合わなくて苦労したが98にしたら、
なんなく自動認識してくれた。
すべて無事に稼動。 めでたし!




2002年11月□日
今日、電車の中で右隣の男性がブライアン・フリーマントルの文庫本を。
左隣のおじさんが馳星周の単行本を、読み始めた。
間のぼくは、矢作俊彦の新書本だった。(ぼくだけ カバー付き)
思わず声をかけそうになってしまった。
こんな事もある横須賀線で、一人むフフ・・の時間だった。

2002年11月□日
今年も、早そんな季節になってしまった。
11月に入ったばかりだと言うのに
クリスマス・デコレーション一杯のお店に出くわす。
それもそのはず、クリスマス用品専門の問屋さんだ。
見事に夕方の馬喰町の問屋街に、うき立つ風景だった。
道路向かいの「エトワール海渡」も年末の装いではあった。



2002年10月□日
JIA見学会  続き
御殿場  倫理研究所
内藤廣委員長 自らのレクチャーを受ける
「金物を使わない木の繋ぎについて、ほぼ完成形に近いと思う。」との由。
見事な木の組み方を見せていただく。

「内藤君も 木造が・・・・」 内田祥哉氏(?)が言ったとか、
言わないとか・・・・。




2002年10月□日
JIA建築セミナー見学会に同行
箱根仙石原   ポーラ美術館
日建設計の安田氏の案内をいただく。
一枚一枚手作りという、高透過ガラス板の光壁のなんと美しいことか。
黄昏時の更にその光輝きの見事なさまに想いをはせる。



2002年9月□日
今 通ってる現場は、東日本橋は馬喰町である。
付近は衣料関係の問屋さんがとても多い。
先日、見つけた「はんてん家」は
確か先週には無かったような気がする。
多分、秋祭りのシーズン限定なんだろう。
店構えも、ビルの1階に「半纏」をひろげて
並べただけという素人っぽい感じだ。
「写真を撮っても良いですか?」と言うと、
快くOKしてくれた。
丁度、祭りの詰め所で番をしている、
町内会のおじさん達 みたいな雰囲気だ。
今が旬のものを見て、少し得した気分だ。

  

2002年9月□日
今年の夏は暑かった。
仕事のあいまに、グイーッと一杯なんてことは やりません。
昼の明るいときは ことのほか旨いんですが・・・、飲りません。
見るだけです。      ( だけど、このサイズなら・・・? )



2002年8月□日
JIAで富田玲子氏(象設計集団)の講演会
懐かしい「ドーモ・アラベスカ」「ドーモ・セラカント」に始まり、
「名護市庁舎」や「笠原小学校」などなどの作品を紹介くださる。

最近の住宅 「ドーモ・キニャーナ」は
「光よ、風よ、雨よ、雪よ、人よ、みんな 来にゃーな」の意だという。
光の庭からは、最下層階のピアノにまで雪が舞い落ちるという。
ピアノの調べのなんと幻想的なことよ。
そのシーンが、目と耳に浮かびます。


氏の「半屋外空間が多いほど、良い建築である。」
との言葉はとても説得力がある。

但し、最近の風潮のように、誰もが生半可に使えるものではない。
富田氏の口から出るからこそ価値がある。
  ・・とは植田実氏の言。

2002年8月□日
三好さんの事務所「空間工房」の屋上で、Y・D・Fの暑気払いのビアパーティ。
前方、大桟橋の向こうに、ベイブリッジのイルミネーションが望める。
振り向くと、ライトアップされた県庁越しに、ベイスターズが頑張ってる(?)
横浜スタジアムのライティング。
それと、旨い酒と楽しい話、なんと贅沢なことだろう。

酔っ払う前に、「フリーペーパー」の役割分担は済ませたと・・・。
夜になってから、「海風」に変わるのがわかった。
だけど、やっぱり酔っ払ってしまって、帰りのチャリは苦しかった。


2002年7月□日
日本ERI(住宅性能評価機関)に、
共同住宅の設計住宅性能評価申請の手続きを終える。
なかなか、苦労しました。
  
日本ERI    http://www.j-eri.co.jp


2002年7月□日
JIAデザイン部会第4回目
建築評論家というより、我々にとっては『都市住宅』の編集者としてのほうが
馴染みが深い植田実さんを迎えての
「毛綱毅曠氏を語る」と題する講演会。
日本住宅史を紹介しつつ、毛綱氏の第1プロジェクト「給水塔の家」や
第1作品「反住器」についてのエピソードを語られる。
「給水塔の家」は『都市住宅』に掲載されたのを憶えているが、かなり本気で
実現を考えていたプロジェクトらしい。
会場にみえていた写真家の藤塚光政さんが毛綱さんとの親交を披露される。
槇さんが『平和な時代の野武士たち』を発表されたときの
毛綱さんのことばは、
「モダニズムなんて、たかが ここ60年のことじゃないか。   ・・ふん!」
だったそうだ。

最後に、植田さんが外国から来た建築関係者に日本の住宅を紹介するとき、
東孝光さんの「塔の家」ではなく、石山修武さんの「玄庵」につれて行くという。
外国人には、あの「塔」の極限の狭さは、理解の範囲を超えているらしい。
それより、よほど「玄庵」のほうがインパクト強く、日本の住宅への
興味を奮い立たせるらしい。


2002年7月□日
建築セミナー番外
先週、五十嵐さん   今週、飯島さんと、JIAのバーで一杯飲ったときの話題。
今、一番元気が良くて最も売れている「建築」雑誌は・・?
答えはお二人とも、文句なしに「CasaBrutus」
あのペースでやり続けると、あと5年でネタが無くなるだろうとの感想。
五十嵐隊長から、「VOGUE」は見ましたか? と問い詰められてしまった。
「ぽむ企画」での、五十嵐隊長の話題を振ったこともあるからなのだが・・・。
そして「そうだ、『PEN』の今号はジャン・プルですよ。」とカバンから
買ったばかりの「PEN」を出して見せてくれる。
この調子では5年も もたないかも・・・。

  「ルイス・バラガン特集」   CasaBrutus

  「建築家はベストパートナーですか?」   VOGUE

  「ジャン・プルーヴェ特集」   PEN 
2002年7月□日
JIA建築セミナー
先週の五十嵐さんの対極にいる、飯島洋一さんの講義は「大ヒット」でした。
スタートは、「磯崎=廃墟派」 「伊東、毛綱=パールハーバー派」のような
「未来は無いと唱える建築家達」によって戦後の建築界は形作られてきた。
磯崎さんの「未来都市=廃墟」    伊東さんの「家族を演じる住居」
毛綱さんの「反住器」          早川さんの「劇場の演技性」
鈴木(了二)さんの「うさん臭さのドラマタイゼーション」
みかん組の「非作家性、手の痕跡を残さない建築」と、
あまたの建築家達をバッサ、バッサと切り捨てる。
小気味良いのを通り過ぎて、最後は 「そこまで言うか !」 と、
だんだん腹立たしくさえ思えてきた。
「つくばセンタービル」に始まった、「ポストモダニスト=未来を信じない人々」
の活躍を時代背景とともに考証してゆく。
ぼくとしては、かなり強引な論拠と感じた。
講義が終わって質疑に移ってからの、受講生のイキの良かったこと。
思わず拍手を送ってしまった。
「飯島さんが切らなかった人たち。例えば槇さんとか谷口さんをどう捉えるのですか?」
「難しいです。正直言って、興味の対象外ですから。
きれいな建物を評論しても、なんのインパクトも無いです。
『平和な時代の野武士たち』と言われてもな〜!  という感じですから。」
「現代思想的建築にしか感心がないです。」と言い切った、飯島さんでした。
これほど、真剣に当セミナーで語ってくれて、受講生が純粋な気持ちをぶつけた
講師は今まで いなかったと記憶する。
主旨に共感するか否かは別にして、今日は スガスガシイ気持ちでJIAを後にした。
もちろん 1階のバーには寄りましたが・・・。
 
2002年7月□日
JIA建築セミナー 五十嵐太郎さん(隊長)の講義。
建築評論家として紹介して良いのだろうか。
ユニット派として、スーパーフラット派としての論を展開される。
来週の講師である飯島洋一さんとの論争についても言及される。
ユニット派なる呼称は飯島さんが付けたもので
「みかん組」や「アトリエ・ワン」を指すとの由。
飯島さんによる「アンチモニュメント」「普通のデザインを指向する」
なんの理念もない連中を指す蔑称と、五十嵐さんは言う。
メディア、ジャーナリストの立場にいる方のお話は 新鮮で刺激的だ。
できれば、受講生をもっと煽って欲しかった。

2002年7月□日
大桟橋がオープンして初めて行ってみる。
JIA建築セミナーの昨年度の生徒さんが、埼玉から来たので おち会った。
すごい混雑だった。
そして桟橋は期待に たがわずと言うか・・・。
やっぱり と言うか・・・。
「工事中」のほうがよっぽど良かった。
木製デッキが、芝生が、手摺が、 みーんな つまんなくしていた。
あのスチールのみで作られた、アバンギャルドな迫力が
永遠に見られないのは、かなり惜しい気持ちいっぱいだ。

2002年6月□日
箱根で開催された「集住センター」研修会に参加する。
「NPOについて」 「建物区分所有法改正案について」などなど、
固いお話もいっぱいだったが、温泉と旨い酒もSETの箱根でした。

泡盛の「琉球王朝」は30度と強い酒だが、
これを氷で飲ると 旨いのなんの・・・。

   途中の湘南の海は梅雨もよう

2002年6月□日
休みの朝 寝坊していたら 脚がツッて 目が覚めた。

緑のピッチは広い。      ・・・・・?

夕方、久しぶりにプールに行ったが、やはり 1000mの手前で脚にきた。

2002年5月□日
2002年度のJIA建築セミナーがスタートする。
開講は、内藤廣委員長の講演から。
内藤さん曰く  「これからの一年間、各講師の話しを有意義に受けとめてください。
講師の方々も 皆さんの目線によって、その日の講義の中身を決めることがあります。
受け手の側が鋭い目を持てば、発信者もそれに応じて話します。」
受講生にとって、これ以上はない 忠告と励ましの言葉だろう。
因みに、内藤さんが最近 一番、目が光っていた
聞き手に出くわしたのは、北京大学でのことっだたという。



2002年5月□日
ルイス・バラガン展(東京都現代美術館)へ行く。

どれが好き? と問われれば、迷わず 「サン・クリストバルの厩舎」と答える。
ピンクの壁と噴水と、水のみ場。 
ジャカランダの木とブーゲンビリヤの花と馬が、まるで一葉の絵葉書だ。
誰が撮っても、プロのカメラマンが写したような写真がとれる気がする。
しかも、どんなアングル、天気、時刻でも・・・。
面白かったのは、自宅は何度も増改築を繰り返したらしい。
そして、鮮やかな壁の塗装は何度か塗り替えたようだ。
果たして、より良い効果の「色」を求めたのか。
単に気分を変えたかったのか、とても興味深い。

2002年5月□日

なんと30余年(?)ぶりの中学校の同窓会(同期会)に出席する。
すぐに名前と顔が思いだされる人。 残念ながら、なかなか出ない人。

中学あたりになると、硬い方面から、柔らかい方面まで
様々な人間がいて とても面白い。
ご同業に近い人もいたりして・・・。
大いに反省したこと。 予習をして行くべきだった。
会場で当時のアルバムを見ながら、目の前に居る人がわかったりもした。

帰りの電車の中で、ほろ酔いの目をこすりながら名簿を見て、
「あ、この人も居たんだ!」と 話しが出来なくて悔しい思いもしてしまった。

懐かしさいっぱいで、時が過ぎるのがもったいないような”ひととき”でした。
次に会えるのは、果たして何年後だろうか。
もう二度と会わない人もいるのかもしれないが・・。


2002年4月□日
YDF(ヨコハマ・デザイン・フォーラム)のフリーペーパー 第1回目の編集会議。
三好さんの事務所「空間工房」は海岸通りの素晴らしい場所にある。
屋上に上ると目の前が大桟橋で、後ろが日本大通りと県庁の緑。
左方向には赤レンガ倉庫が見渡せる。
これからビールが気持ちの良い季節であろうオフィスで羨ましい。

    港をバックに編集会議の面々  
 

2002年4月□日
南洋堂「N+」 建築セミナー特別講義
「建築セミナー受講生作品展」の 今ひとつの盛り上がりを見かねて
内藤廣委員長 自ら 「表現するということ」(なんにでも答える内藤廣)が開催される。
なんとあの狭い南洋堂の4階に50人ほどの若者が詰めかける。
缶ビール片手に和気あいあいながらも、真剣な時間がすぎてゆく。

「学校や、事務所に戻って、喋るんじゃないぞ・・・。」
「おまえ、そんなことまできくのかよ〜」  ・・・と言いつつも
楽しそうな顔の内藤さん。

ぼくが、もっとも この日聴けて良かったお話。
海の収蔵館ができたときに 二人のお子さんを連れて行って、
「この子らが、建築をわかるようになるのは20年後くらいか。
その頃までは、建築を続けようと思った。」
同年代の人間として、しみじみとしてしまいました。


2002年4月□日


なにやら、当雑記帖をながめていると、
自分は なんの仕事をしているんだろう という気になってしまった。
そこで、今 携わっているJOB.を 載せてしまう。



2002年3月□日
中村陽子さん設計の集合住宅、オープン見学会へ行く。
施工は矢島建設。 外断熱のRC造。
内外ともに、色使いに気を配った様子。

    

2002年3月□日
JIAデザイン部会2001年度の最終講演会。
構造設計家 今川憲英氏
河野が今川さんに無理をお願いして設定させていただきました。
「平面に比して断面は、空間に物語を与え、それを相手に伝えることが出来る。」
あるいは「面で、空間を構成する手法」 「構造デザイン関数」など、
構造家ならではのお話しに 活発な質問も飛び交い 盛況なうちに終わりました。

2002年3月□日

JIA建築セミナーの終講式。
今年度の受講生50名。
今日は「ほんの一区切り」
明日から、皆さん同士、それとJIAとの繋がりも大事にして
建築の世界でのご活躍を期待しております。

    内藤委員長

2002年3月□日
横須賀線東戸塚
このあたりで一番早く咲く桜。
今年の開花は3月第1週。
いつにも増して早かった。

  

2002年2月□日
JIA建築セミナー、今年度最後を飾るにふさわしく
伊東豊雄さんを、お迎えしてのプログラム。
内藤廣委員長と遠藤勝勧さんも来られる。
菊竹事務所の超豪華顔ぶれとなってしまった。
スライドを映しながら、ベルギーに作った期間限定パビリオンと、
せんだいメディアテークのことを お話し下さる。
仙台がそれほど、施工上の困難さがあったとは知らなかった。
仮止め溶接された床版のスチールパネルが夜の温度変化の動きで、
デカイ音と共に はじけ飛んで落下する、なんてことは
今日来た人しか聴けなかった話ですぞ。
仙台に行こう。

2002年2月□日
ここのところ、2月とは思えない暖かい日が続く。
冬の間 じっと駐輪場(狭い軒下)で、がまんしてくれていた愛車を引っ張りだす。
久しぶりにチャリでお散歩 ではなくて、花粉症の薬をもらいに耳鼻科医院に・・・。
とほほ・・。
このままいくと、今年は暖冬だ。
2002年1月□日
ドナルド・E・ウェストレイクの「ドートマンダー」を久しぶりに読んだ。
「天から降ってきた泥棒」を古本屋で見つけて一気読みだ。
最近は「ドートマンダー・シリーズ」の新作は無いものと、
決めてかかっていたので うかつだった。
ビールを飲むときに、必ず塩入れを持っている、
スタン・マーチが健在なのはうれしかった。
あまりにもビールを チビチビと飲るので、
ときどき泡立てるために 塩が必要なわけだ。
それにしても、ドートマンダーは名作「ホット・ロック」の映画の印象が強すぎて、
ロバート・レッドフォードの顔が ちらついてしょうがない。
本当はあれほどスマートではない気がするんだが、映画の恐ろしさだ。
D・E・ウェストレイクは、昨年「斧」を読んで、またまた異なる才能におそれいってしまった。
不景気な年の暮れでもあって、何度読むのをやめて
投げ出そうと思ったかしれない本だった。
身につまされるとまではいかないが、暗〜く、暗〜く なってゆく物語だ。
失業した男が、自分の職をつかむためにライバルと思われる見知らぬ男を
次々と殺していくのだが、きっと今のわが国のお父さん達はみんな
心穏やかには読めないんではないだろうか。
最後が、「happy」か 「unhappy」かは、ここで書くわけにはいきません。 ハイ。



2002年1月□日
「Midnight+1」サイトのgabyさんに誘われて新宿ゴールデン街へ。
その名も高き内藤陳さんの「深夜+1」バーである。
内藤会長の出社は9時過ぎとのことなので、
近くで gabyさんサイトの お仲間と落ち合って腹ごしらえ。
歌舞伎町にこんな店が・・というほど驚きの
静かで雰囲気良い「隠れ家風」の呑み食い処。
(流石は、そちら方面にうるさい桜子さん。ありがとう。)
「深夜+1」は噂通り、予想通りの狭さと熱気。
天井には「鷲は舞い降りた」に出てきそうな、飛行機が飛んでいたり。
壁には内藤会長の若き日の「ハードボイルドしている」写真やら・・。
かって此処のカウンターの中に坂東さん(ハセさん)がいたんですか・・?
とは聴かなかったけど。(当時も金髪だったんだろうか。)
超満員状態で、ぼく達が入るためには誰かが出ないといけない。
椅子が無い人は当然立ち飲み。
会長に、 「バー・カウンターの足元床がピーナッツの殻で埋まってる映画」
覚えていますか?と聴いてしまった。
テリーさんと、矢作俊彦さんの話で盛りあがっていて、
思いつきで口走ってしまった。
あやふやな話でゴメン! ちゃんと調べます。


2002年1月□日
昔 設計した住宅の改修工事で上野毛あたりを歩いていたら、
ヒョイと 宮脇檀さんのBlueBoxに出くわしてしまった。
記憶なんぞは あいまいなもので、
GleenBoxだとばかり 勝手に思い込んでいた。
目にしたときは一瞬、住まい手が塗り替えたのかと思ってしまった。
古い雑誌を引っ張り出して確かめたが、Blueに間違いなかった。
(そーです今は亡き「都市住宅」7206号)
だけど、予期せぬ所で良いデザインの建物に出くわすと、
とても得した気持ちになって、今日一日ゴキゲンでした。
静かな住宅街なので、持ちあわせていたデジカメの
シャッターを押して、そそくさと たち去りました。






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